以下斜め読んだ内容

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ジジェクの『ラカンはこう読め!』を読む

update:2008.03.26.
ジジェクを久しぶりに読む(asin:4314010363)。まだ半分くらいだが。ジジェクが前に書いた文章からのコピペがかなり多い(がゆえに冗長)な書き手で、そのことで文句を言われたからか知らないけど「今回もパクるけどできるだけアレンジ」(大意)と言い訳。
ラカンを説明するという前提を離れない限りでなら色々心に引っかかる箇所はある(ラカンとフロイトの一致しない点、ジジェクにとってラカン=ドグマになっていない点とか)が、それを離れるとあまり印象に残る箇所はないかも。平等についても説明(平等を擁護する動機には、嫉妬(オレにもよこせ!)が含まれる)にしても、そうだけどそれが何かという話だし。
『知の欺瞞』以降にラカンについて書くということは、特にラカンの自然科学の援用・言及についてもきちんと書くことが誠実な態度だと思うんだが、この辺について多少は意識してるようなしてないような箇所が見られる。とはいえ曖昧。
自分にとってジジェクの議論で刺激されるのは、ありふれたマルクスヘーゲル批判(頭で立ってるとか、そんなやつ)に対してヘーゲルを擁護する部分。自分としては『ラカンはこう読め』なんかよりも『ヘーゲルはこう読め』『マルクスはこう読め』の方をずっと書いて欲しい。

ちなみにこの本、ジジェクのインタビュー本の『人権と国家』で、インタビュアの岡崎玲子から「ラカンを理解するコツを教えて」と聞かれて、ジジェクが「今度出るこれ読め」と宣伝してた本。

一通り読んだ。二周目。

ラカンの勉強についてかなり具体的なアドバイスをしている箇所。
このアドバイスにしたがって読んでみる機会があるかどうかわからんが。

では何をどう読んだらいいのか。エクリなのか、セミネールなのか。唯一の正しい答は、古い「紅茶にしますか、コーヒーにしますか」というジョークと同じく、「はい、いただきます(Yes,please!)」である。つまり、両方読む必要がある。・・・(略)・・・特に顕著な例は第七セミネール「精神分析の倫理」とそれに対応する『エクリ』の「カントとサド」、同じく第十一セミネール「精神分析の四基本概念」と「無意識の位置」である。pp.218-9

その他心にひっかかった箇所。

たとえば、もし精神分析が「談話療法」であり、心的障害を言葉だけで治療するのだとしたら、ある特定の言語観に依拠しなければならない。ラカンにいわせれば、フロイトは、自分の理論と実践に含まれている言語観に気づいていなかったのであり、この言語観を発展させるためにはソシュール言語学、言語行為理論、ヘーゲル的な認識の弁証法を取り入れなければならないのだ。p.20

本書『ラカンはこう読め!』は、・・・。公正な判断を自負するのではなく、党派的な読み方をする。すべての真理は部分的(=不公平)であるというのはラカン理論の一部である。ラカン自身が、フロイトを読むにあたって、そうした不公平なアプローチの威力を例証している。p.22

これらのことは偽りの行動(false activity)という概念を思い出させる。人は何かを変えるために行動するだけでなく、何かが起きるのを阻止する為に、つまり何ひとつ変わらないようにするために、行動することもある。これこそが強迫神経症者典型的な戦略である。p.53

転移は、より一般的な規則の一例にすぎない。その規則とは、新たな発明というのは、過去の最初の真理に戻るという錯覚な形式においてのみなされるということである。・・(略)・。民族集団が国民国家を建設するとき、彼らが気づいていないのは、彼らの「回帰」そのものが、回帰すべき対象を形作っているということだ。伝統への回帰とは、伝統を発明することに他ならない。歴史家なら誰でも知っているように、(今日知られているような形の)スコットランドのキルトは十九世紀に発明されたものである。pp.57-8

二〇〇五年十一月、ブッシュ大統領は「われわれは拷問していない」と声高に主張しつつ、同時にジョン・マケインが提出した法案、すなわちアメリカの不利益になるとして囚人の拷問を禁止する(ということは、拷問があるという事実をあっさり認めた)法案を拒否した。われわれはこの無定見を、公的言説、つまり社会的自我理想と、猥褻でで超自我的な共犯者との間の引っ張り合いと解釈すべきであろう。p.155