finalventさんによる永井均
2008.12.05更新
NHKで川上未映子さんが永井均『翔太と猫のインサイトの夏休み』を朗読してたらしい。それをみたfinalventさんが永井均について書いてることへの感想。
朗読のなかで、現実世界と可能世界というのが出てきて、現実世界は可能世界の一つのいうくだりがあって、あ、痛いたたたとか思ってまいった。可能世界というのは、たぶん、この本では独自の定義をしているだろうけど、きちんとした定義があるんで、まいったな、と。それと現実世界というのは、基本的にはフッサール的な生世界として取り出せるもので、こういうと先の体当たりとは矛盾するけど、それなりにきちんと哲学の基本で考えたほうがいい。まあ、でも、まいった。
今日の一冊 「翔太と猫のインサイトの夏休み」永井均 - finalventの日記
- 「可能世界」には「きちんとした定義がある」、について
- 哲学的議論の中で登場する言葉、について
- ある言葉が哲学の議論に出現した時に、自分が今まで読んだことのある文献で使われてる意味を言葉に割り当てること
- この態度は、先入見と偏見全開で読むということ
- 止めた方がいいと思う。他人の言葉を理解することに関心を維持してるのなら。
- もっとも、速読の秘訣はそうなんだろうけど。自分が傷つかない場所から情報を摂取する。
- 『翔太と猫のインサイトの夏休み』で「可能世界」「現実世界」といった言葉が何を指しているのかを確認してみては?
- この確認の作業を怠ると、かみ合わない(同じ言葉で全く異なる内容を指している人同士が対話してるような状況)。
- 永井均の言葉遣いが現象学者と異なるという事実は、永井均の議論が出鱈目であることを含意してない。
- ちなみに、永井さんの議論は英語圏の議論と関連付けることが十分に可能だと思う。
- 議論している対象、言葉が指しているもの明快さが、永井さんと英語圏の哲学の間では共有されてるから
- ハッキングが『言語はなぜ哲学の問題になるのか』において大陸系・現象学系の言語哲学(哲学的言語論)を考察の対象から外した理由について書いてる一文が簡潔でいいと思う(あとで引用)。
- ちなみに、永井さんの議論は英語圏の議論と関連付けることが十分に可能だと思う。
- そもそもの話。英米系の哲学とか大陸系の哲学とかを参照しなくても、永井氏の議論は理解・検討可能です。
- ある言葉が哲学の議論に出現した時に、自分が今まで読んだことのある文献で使われてる意味を言葉に割り当てること
- 「それなりにきちんと哲学の基本で考えたほうがいい。」について
『翔太と猫のインサイトの夏休み』で議論されていること
『翔太と猫のインサイトの夏休み』再読している。全部じゃなく上に書いたことに関係する部分(2章)。1文1文のつながりを確認しながら(時には戻ったりしながら)読んでる。まだ読み終わらないが、読み終わったら対話形式で展開された議論を再構成してみる。
きみの友だち、丹羽くんも越生くんもみんな心があるし、それぞれ『ぼく』だ。でも翔太、きみが『ぼく』であるっていうことはやはり何か違うね?ある意味じゃまったく違うと言ったっていいだろう?それは現実世界と可能世界の違いに似ていないか?現実世界は可能世界の一種には違いないんだけど、ある意味ではぜんぜん違うものだ。それと同じように、このぼくは無数のぼくの一人なんだけど、ある意味ではそいつらとはぜんぜん似ても似つかない特別のものなんだ。
もうひとつ、すごく重要な類似性があるんだよ。それはね、現実世界の場合も『ぼく』の場合も、それをほかの世界やほかの人々から区別する基準はその内容にあるんじゃないってことだ。・・・
77p.傍点を太字に変えてる
ちなみにページ数は、文庫版じゃなくて単行本版。
筑摩書房
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